【サザン関口さんと松元監督とのハワイ日系人の話(前半)】

mahalostevek/ 5月 17, 2016/ ハワイ関連, 日常・雑感/ 0 comments


この話は、ハワイが好き興味がある方なら
知らなくてはいけない話。

どうして、
日本人がハワイが好きなのか。
そして、
安心してハワイに行けるのか。
それは、
日系ハワイアンの方々の
血と汗と命で作られた
歴史があるからです。

先月タイムラインに掲載した
ドキュメンタリー映画
『Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶』
記事はこちら
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1049124598467406&set=a.198337833546091.47609.100001096283463&type=3&theater

Hiroyuki Matsugen Matsumoto松元裕之監督
先週の土曜の朝(5/14)
innta-FM「関口和之NO-FO-FON TIME」において
サザンオールスターズの関口和之さんと
日系移民そして日系二世についてを
対談されました。

著作権上、音声をアップできないので
書き起こしをしました。

今回はPart1(前半)
長い文章になります。

じっくりお読み下さい。

以下「関」は関口さん、「松」は松元監督です。

関「ハワイと言うと、日本人にとって行きやすい
観光地なんですけど、それはなぜか。

ただ単に、こうアロハな人達がいるってことじゃなく、
明治元年から始まった日系移民の歴史を踏まえてですね。
日系移民の方々の苦労をがあったから、
ハワイが日本人にとって行きやすい場所になったと
いう事があります。

その日本人移民の苦労は、どんな話があるのでしょうか。
その中の大きなエピソードとして、第二次世界大戦中に
アメリカ兵として戦争を体験した、
ハワイ在住の日系二世の人たちがいましたね。
退役軍人とその家族を取材して、その当時の出来事などを
映画にしたということで、これは間違いないですね」

松「はい」

関「それがこの、後世に残すということがふさわしい映画として
ホノルルフィルム・フェスティバルのハワイフィルム部門で
ベストオブハワイ賞を受賞。

また1,000本以上の作品が出品される、
マウイフィルム・フェスティバルでもファイナリストに残って、
日本とハワイの両方で評価されています。

まず、この映画を作ろうと思ったきっかけは、
どうゆう所からですか」

松「はい。
ボクの友人、震災で大変なことになっている熊本で
書家をしていた友人を亡くしまして、2007年なんです。

友人がハワイのマウイ島で作品を発表することを夢見てまして、
マウイというのは、関口さんもご存知だと思うんですけど、
アーティストの島。

小さな町にも、ギャラリーが一杯あったりして、
アメリカ本土からも、直接買い付けに来るところでして、
友人はマウイ島で作品を発表することを夢見てたのが、
ガンで亡くなってしまい、遺作展を亡くなった3ヶ月後に
マウイで開きに行ったんです。

そのとき、ハワイ移民日系社会の熊本県人会の会長だった
ご夫婦を中心に、マウイの日系社会にお世話になったんです。

その御礼をどうしようかと考えた時に、
マウイの日系社会全体で
【Kansha Preschool】というのをやっているというのを、
教えられました。

Kansha Preschoolとは、Kanshaは日本語の感謝で、
日系社会で子供たちに対して、いま日系社会があるのは二世の、
先ほど関口さんが仰った第二次世界大戦のハードシップの
お陰だと、それを小さなうちからきちんと伝えていく。

二世に感謝、日系人としての意識をちゃんと
伝えていこうということで始められたスクールと聞いて、
僕は遺作展でお世話になったお返し=御礼を
この日本からスクールをサポートすることによって、
持続的に関係が作れていくんじゃなかと考え、
このKansha Preschoolをサポートするために
NPOを設立しました。

残念ながら、日本人のほとんどの人が二世のことを知らない。

まずは、二世のことを知ってもらわなければいけないなと
いうことで、この映画の制作に入っていったわけです」

関「戦争が始まって、アメリカにとって
日本は敵国になったわけで、
ハワイに住んでいる日系移民の人たちも、
敵国の人という、、」

松「はい、敵国ということになりました」

関「それで、収容所に送られた人もたくさんいたし、
そこで日系移民のなかにも葛藤があったと思います。
その中でアメリカに忠誠を誓うということで、
日系人達の地位を守ろうとした人たちが、
アメリカ軍の部隊に入ったわけですね」

松「二世たちは、もちろん忠誠を示さなければいけないと
いうのもありましたし、親を強制収容させないために、
自分が兵役に付けば逃れるじゃないかと考えた
ということもありました。

あと、1人の二世が言うには、
貧乏だったけど不自由なく育ててくれた
親とか地域に対して
お礼を返していくのが当たり前のことで、
そのために私は志願しましたと、
言っている人がいました。

ほとんどの二世は同じような気持ち、
忠誠を示さなければいけない。
そして、親とか将来の日系人のために
行かなければいけないという
精神があったと思います」
関「特に日系二世の方には感じるんですけど、
今の日本人よりも日本人ぽさがありますね」

松「その通りですね。映画には34名の日系二世、
退役軍人が31名と奥様が3名のインタビューを
撮っているのですが、多くの二世が
「私たちは修身を習いました」と言ってたんですね。

やはり明治時代の日本の教育修身を
彼らは公立学校が終わった後に
日本語学校に通って教えられましたわけです。

先ほどお話したように、
目上の人を敬ったり、
地域に奉仕をするとかは、
彼らにとっては当たり前のことだったようです。

何名かの二世が英語で「obey」って言ったんですね。

直訳すると「従属する」「服従する」って意味なりますが、
社会の中で、我を通すのではなくて、
社会のために奉仕をする精神があるというので、
今の日本人より日本人精神があるんですよね」

関「もともとハワイが持っているアロハな感じと、
日系の文化がハワイの中に、
染み渡っているんじゃないかと思いますね」

松「そうですね」
関「ハワイの人達は今の日本人よりも、
お宮参りや七五三をきちんとやりますよね」
松「正月は餅つきもちゃんとやりますよね。
関口さんも長くハワイに行っている間に、
例えば、バス停だとかローカルレストランとか
飛行機の中で二世の人たちとか、
日系のお年寄りに声かけられた事ってないですか」
関「そうですね、ありますね」

松「昔は本当に、
親しげに二世の方がニッコリして
声を掛けてくれることが多々。

ワイキキ周辺にいたら、
あまり経験ないかもしれないけど」
関「この映画は公開して3年経っているのですが、
反響などいかがですか」

松「やはり、ほとんど観た方が
「知らなかった」ということが多いですね。
ほとんどの方が知らなかったと。

中にはもちろんフラをやってらっしゃる方もおられますし、
ハワイが好きでハワイマニアという方もいますし、
ミュージシャンの方もいますけど、
ほとんどの方は、ここまでは知りませんでしたと
言ってくれます。

あと、今僕たち日本人が受け入れられているのは、
日系の人たち。
特に二世の人たちの活躍というか、
犠牲というか、お陰なんだと口にされる方が多いですね」

13226817_1069638143082718_679035667948336897_n-2

関「特に音楽とかフラもそうですけど、
文化的なものを通してハワイに入って行く人は
必ず知識として知っていく必要があると思います」
松「そうですね。
よく、フラの先生やネイティブハワイアンの先生
クムと言われる人たちが、ハワイの歴史を知りなさいと
言っているのを聞いているのですけど、
それは大体、先住ハワイアンの歴史だけで
終わってしまっていることが多々あると思うんです。

1900年以降アメリカの法律が施行されてそれ以降、
もちろん今までの間に歴史があるわけで、
いわゆる近代史」
関「そう、近代史」
松「なぜいまハワイが州になっているのかとか、
なぜ経済的に分配されているのかとか、
なぜハワイ語が復興されたのかとか、
そういった「今がある」のはなぜなのか
というところに、
なかなか目を向けないのかなという気がします。

近代史のなかで日系人というのは、
なくてはならない存在で
いまのハワイを築き上げたと言っても
過言ではないと言いたいです」
関「BEGINって同じ事務所のバンドなんですけど、
BEGINが前からハワイに行きたいと言うので
僕はね、これをちゃんと勉強してから行けと、
ヒストリーチャンネルでやっていた
ビデオで勉強してもらった記憶があります」

松「彼らもいま、日本とハワイのため、
沖縄とハワイのために、とても活躍されてますよね」

関「沖縄系の人も多いですものね」

松「はい、今ハワイの日系団体、
沖縄系を一緒にしていいのかわかりませんが、
沖縄系の団体だけは人口が増えていて、
会員が増えています。

他の団体は日系の県人会なんかは、
二世が高齢化していなくなっているので
県人会は尻つぼみになっています」
関「他には、日本のどの辺から移民が多かったのですか」

松「はい、
広島・山口・熊本・福岡・愛媛・鹿児島・長崎のように
九州が多いんですけど
福島ですとか新潟も何千人かハワイに行っています」

関「聞いたことがあります。
僕の高校が新発田市だったのですが、
そこの人の旦那さんが出稼ぎみたいに向こうに移民して、
仕送りがしばらく送ってきたんですけど、
そのうちパッタリ途絶えてしまって、死んだんじゃかとか。

親戚がたまたまハワイに行く機会があって、
調べたらしいのです。
どうやら、向こうで違う家族と住んでいたらしく、
それを聞いた地元(新発田)の家族は
「お父さんじゃない」って縁を切ったつもりだったけど、

後々話がまた伝わってきて、お父さんは帰りたかったんだけど
いろいろな事情があって帰れなくって、
家族の写真を見ながら泣いていたという話を聞いて
地元の子孫がハワイの家族を呼んで、
新発田の写真館でハワイの家族と記念写真を撮ったそうです」

松「実は、先月4月に新発田出身の方。
1年前にコーヒーハンターのUCCのコナコーヒーファームを
拓いた川島さんと【コナコーヒーとハワイの日系人】
というイベントを開いた時。

横浜のお年寄りの男性が来られて
「私の叔父がハワイに移民しました。
一度もやり取りをしていなかったので、
今どうなっているのかわからなかったのですが、
姉が亡くなって戸籍を調べたら、
名前とハワイで生まれた子供達の名前もわかったのです。
一度も連絡をとってませんが、探すことって
可能でしょうか」
と相談されました。

二世の方の年齢が、
ちょうど映画に出ている人たちと年齢が近いので、
僕の方で調べてみたら
やはり、日系人部隊に2人所属していて、
退役軍人会に問い合せをしたら、すぐ返事が来て
窓口の人の親友のお父さんだったことが判明し、
奇跡的にすぐわかりました。

お年寄りは英語もパソコンもできないので、
お嬢さんとやり取りしていて、
二世の方はシニアハウスで車いす生活で日本に来られないので、
お子さんが三世になられますけど日本に来て、
横浜のお年寄りと引き合わせました。

ハワイに移民として渡ったのが1919年、
97年目にして初めてハワイと日本の家族が会いました」

関「記録ととか辿ることはできるでしょうけど、
生々しい話というのは生きている方から聞かないと。

そういった意味では、
こういったドキュメンタリー映画は貴重ですよね。
かなりお年寄りの方から、話を聞いたわけですよね」

松「実は今、34名の内16名が亡くなっていまして、
ご存命の方でも平均93歳を超えいている状態。
一番年上で102歳になられる方がいらっしゃいますが、
明日がわからない高齢になっています」

関「戦争当時はみなさん20歳そこそこ」

松「それこそ20歳そこそこ、それと10代。
一番多い世代が10代が多かったです。
高校出て、大学1年ぐらいの年齢で
志願していったということですから」

関「そういう人たちの貴重な話をね、
残していただいたということですね。

この辺で一曲聞きたいのですが、
ジェイク・シマブクロがこのエピソードを聞いた時に
二世部隊に捧げるために、この曲を書いたという。
タイトルはGo for Broke 」

前半はここまで。
後半をお楽しみにしてください。

ジェイク・シマブクロ「Go for Broke」
こちらのリンクから
https://youtu.be/2tJycPOqPZQ

 

Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>
*
*